最後の痛み
二〇九四年の東京は、痛みを忘れた街だった。
白川澪は、指先が切れたときに気づく。ガラスの破片が皮膚を裂き、薄い血がにじむ。それでも澪の顔に苦痛の表情はない。ただ、傷口を見つめて、静かに息を吸い込む。
「また来た」
彼女は呟いた。それは習慣的な確認の言葉だった。痛みは、今でも澪のもとに訪れる。
遺伝子編集技術「ゲノムレス」が世界に普及してから三十年が経っていた。痛覚を遮断する遺伝子改変は、現在では出生時の標準処置として保険適用される。骨が折れても、皮膚が焼けても、脳は「異常信号」として情報を処理するだけで、意識には届かない。医療崩壊が叫ばれていた時代は遠くなり、労働災害による死亡者数はほぼゼロになった。世界はもっと効率的になった。
澪は非改変者だった。アンモデ——「非改変者」を意味するスラングで、人口の五パーセントにも満たない存在。先天的な遺伝子の構造上、ゲノムレスが適用できない。医学的な欠陥ではなく、単なる確率の問題だと医師に言われた。十二歳のときに。
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