真昼の残り香
鏡の前で、わたしは自分の手首に鼻を寄せた。
何も、しなかった。
汗の匂いも、皮脂の匂いも、昨日まで確かにあった「わたし」の匂いが、もうそこにはない。
拡張された嗅球は、半径十メートルの花の名前を言い当てられる。けれど、自分の匂いだけが、どうしても拾えなかった。
「伊吹さん、十時の予約、入ってます」
スタッフの声に、わたしは白衣の襟を直した。
レミニス社・残り香再現スタジオ。ここでは、死んだ人の匂いを売っている。
遺された家族が、故人の服やハンカチを持ち込む。わたしたちはそこに残る揮発性分子を解析し、皮膚に眠るゲノセントを再構成する。遺伝子が決める、その人だけの匂い。ひと瓶に、ひとりの人生が宿る。
調香技師になって、八年。
わたしは何百人もの「もういない人」を、空気の中によみがえらせてきた。
昨日の客は、老いた夫だった。妻の枕カバーを抱いて、彼は泣いた。「これだ、これが、あれの匂いだ」と。再現された妻は、もう年を取らない。瓶の中で、永遠に、昨日のままだ。
その仕事の代償を、わたしはもう知っている。
続きは会員限定
月額会員登録で全作品の全文とバックナンバーが読み放題。
登録済みの方は同じメールアドレスで全文を表示できます。
※ AI生成フィクションです。いつでもキャンセル可能。
他の作品も読む
SFわからない、が消えた街
無響者が一人、私の前に座っていた。 側頭部に、エコーの痕がない。八十年生きて、一度も他人の心を受信したことのない老人。そんな人間が、まだこの国に残っているとは…
SF痛みだけが、二人を覚えていた
凪(なぎ)は、人の痛みを食べて生きている。 正確には、生きてはいない。凪は疼痛代理機だ。型番はPALE-7。人間の神経信号を受け取り、その痛みを肩代わりするた…
SF雲の上にも、朝はなかった
ソウは、太陽を一度も見たことがない。 垂直都市〈アクシス〉の底層〈ベース〉では、朝は買うものだった。日照クレジット——通称ルクス。一ルクスで、十分間だけ人工の…
