わからない、が消えた街
無響者が一人、私の前に座っていた。
側頭部に、エコーの痕がない。八十年生きて、一度も他人の心を受信したことのない老人。そんな人間が、まだこの国に残っているとは思わなかった。
「あなたが設計したんですか」灰原宗一は、湯呑みを置いて言った。「この、便利な耳を」
私はうなずいた。結城澪、ノエシス社・共鳴神経部門の主任。エコーを——正式名称、共感共鳴インプラントを——世界に配った張本人だ。
エコーは、半径五メートルの他人の感情を、神経へ直接流し込む。怒りは熱として、悲しみは重さとして伝わる。言葉より早く、嘘より深く、相手の心がわかる。
導入から十二年。世界の暴力は、八割消えた。わからない相手を、人はもう殴れない。
「すばらしい技術です」灰原は笑った。皮肉ではなく、本当に感心しているようだった。「だが、ひとつ訊きたい。あなたは今、私の心がわかりますか」
わからなかった。
老人の周囲だけ、世界が無音だった。エコーを持たぬ者は、受信もされない。彼は感情の地図の上で、ぽつりと空いた穴だった。
「無響者は、あなたで最後です」私は本題を出した。「共感庁は、完全な共鳴社会を望んでいます。九十九・九パーセントでは、足りないんです」
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