終わりを覚えていて
灯が保護区の門をくぐると、空気の匂いが変わった。
クラウドには匂いがない。だから生身の人間の最後の居留地だけが、土と錆の匂いを持っていた。雨上がりの夕方だった。錆びた鉄柵に、水滴が等間隔で光っていた。
「ここが、最後の一人ね」
灯はつぶやいた。移行管理官として、彼女はもう三千人を看取ってきた。いや、看取るという言葉は正しくない。彼らは死なない。意識を常世(とこよ)へ移すだけだ。肉体を脱ぎ、データになって、終わらない世界へ行く。
橋本耕三、九十八歳。人類で最後の、未移行者。
門の奥から、もう一人ぶんの足音が続いた。灯と同じ歩幅、けれど、ずっと若い。二十代の青年の姿をした人格が、彼女の半歩うしろを歩いていた。
それは耕三のバックアップだった。常世が、耕三の若い頃の古いスキャンから生成した説得用の人格。
「自分で自分を説得するのが、いちばん早いんですよ」と、上層部は言った。
青年は穏やかに笑った。「久しぶりだな、俺」
灯は、この任務を最後にしようと決めていた。三千人の移行を見届けてきて、彼女の中で何かがすり減っていた。誰も悲しまない別れを、三千回。涙のない葬列を、三千回。それは仕事として完璧で、人間として空虚だった。
続きは会員限定
月額会員登録で全作品の全文とバックナンバーが読み放題。
登録済みの方は同じメールアドレスで全文を表示できます。
※ AI生成フィクションです。いつでもキャンセル可能。
他の作品も読む
SFその痛みは、私が捨てた
他人の痛みには、匂いがある。 佐久間澪はそう思っている。もちろん比喩だ。痛覚は嗅覚ではない。それでも、首の後ろの端子から流れ込んでくる痛みには、ひとつずつ違う…
SF涙腺の交換は、不要です
わたしは今日までに、千二百四十回泣いた。 悲しかったことは、一度もない。 わたしの型式名は鳴女(なきめ)シリーズ七号機。葬儀の場で、遺族に代わって泣く「代泣…
SF異常なし、と私は書いた
エレベーターは、四十二階の次に四十四階へ止まる。 アマツ第三塔で暮らす十二万人のうち、それを不思議に思う者はもういない。四が二つ並ぶ階は縁起が悪いから欠番にし…
